尾山神社

尾山神社

宮司さんに聞いてみよう!

金沢市民の心の故郷として親しまれる尾山神社。でも神職さんのこと、神社への参拝のこと、尾山神社の神様のこと、知らないことも多いですよね。より深く尾山神社のことを知ってもらうことで、その親しみも増すのではないでしょうか。宮司の加藤 治樹がよく寄せられる質問にお答えします。新しい発見がきっとありますよ。

神職さんのこと、神社への参拝のことについて

神社に仕える人を「神職」といい、神職の仕事を「奉仕」といいます。尾山神社の神職には、ぐう(宮司)(禰宜)ごん(権禰宜)に加えて(巫女)がいます。このうちぐう(宮司)(禰宜)は一般の会社の社長、副社長に相当する役職です。神職は、皆さんに気持ちよく参拝していただけるようしゃ殿でん(社殿)けいだい(境内)をきれいに整え、お祭りやご祈願、結婚式などをご奉仕しています。
神様と参拝される方との間を取り持つ「仲執なかと(仲執)り持ち」としての役割を常に意識しています。また私たち神職は、神様に対して失礼のないようけしてお尻を向けません。はきもの(履物)を脱ぐとき、体の向きを変えるときなど、一つひとつの動作に気をつけています。
神様にそうじょう(奏上)する「のり(祝詞)」です。「かけまくもかしこ(畏)き〜」(おそれ多くもとうと(尊)い )で始まり、しんとく(神徳)をたたえ、これまでの感謝を述べ、参拝者の住所氏名とともに願いごとを申し上げて、最後は「かしこ(恐)かしこ(恐)みももうす」(つつし(謹)んで申し上げます)で結びます。のり(祝詞)には定型文がありますが、神職が作文することも少なくありません。おん(微音)で心を込めてそうじょう(奏上)することが基本です。
願いごとがあるときや、そのお礼参りに、また日々の生活や人生のさまざまな節目にご参拝ください。大きな神社から小さなほこら(祠)まで、うらうら(津々浦々)に神社がある風景は日本ならではのものです。科学文明が発達した現代でも、神社は日本人の心の文化と暮らしに深く関わっているのです。
願いごとをするときは、まず神様への感謝を伝え、自分も最大限の努力をすることお誓いしましょう。その上で、神様はあなたをお守りくださいます。人生における幸・不幸、運・不運は、その人の受け取り方次第です。神社に足を運ぶことで、人生を前向きに生きる心の持ちようも知っていただければと思います。

尾山神社について

尾山神社は、はん(加賀藩)の最初の殿様である前田利家公と、利家公のせいしつ(正室)(奥様)であるお松の方をしゅさいじん(主祭神)としておまつりしています。武将のさいじん(御祭神)ですから、「文武両道」「必勝」のご利益があると言われています。またご夫婦でおまつりしていますので、「夫婦円満」「子宝安産」を祈願される方もいらっしゃいます。
年間約90の祭礼があります。代表的なものは4月の「しゅんさい(春季祭)」「れいさい(例祭)」、6月の「百万石まつりがんさい(祈願祭)」「ほうこくさい(封国祭)」「ほうこくにちさい(封国後日祭)」、10月の「しゅうさい(秋季祭)」です。
もっとも有名なのは百万石まつりです。利家公のぶんれい(御分霊)をお乗せした尾山神社ほうれん(御鳳輦)とともに、俳優さん扮する利家公とお松の方、そして武者行列やとび(加賀鳶)などが「百万石行列」として市中を歩きます。
一般公開はしていませんが、利家公が戦で使用したよろい(鎧)かぶと(兜)とうけん(刀剣)などの武具や、直筆のたんざく(短冊)、15代はんしゅ(藩主)としつぐ(利嗣)公がほうのう(奉納)された能面など前田家ゆかりの宝物があります。
前田家の歴代はんしゅ(藩主)は能の愛好家として知られています。5代つなのり(綱紀)公の時代にこんぱる(金春)流からほうしゅう(宝生)流に改流し、その後「ほうしゅう(加賀宝生)」として庶民にも広く普及しました。金沢の伝統芸能であるほうしゅう(加賀宝生)は、前田家ゆかりの市民の宝だと言えます。
かなじんじゃ(金谷神社)」といい、尾山神社のせっしゃ(摂社)です。せっしゃ(摂社)とは、神社のしゅさいじん(主祭神)とゆかりの深い神様をおまつりする小さな神社のことです。かなじんじゃ(金谷神社)では、前田家2代以降のはんしゅ(藩主)とうしゅ(当主)とその奥方をおまつりしています。
前田家のこう(威光)を象徴するような建築物をつくろう、という人々の意気込みの表れだと思います。伝統を守りつつも、新しいものを柔軟に取り入れていく金沢人のふう(気風)や美意識は、この頃からあったのですね。
とはいえかんよう(和漢洋)の3様式を取り入れた斬新なデザインですから、反対意見も出たとの記録が残っています。しかし現在、しんもん(神門)は国の重要文化財に指定され、金沢のシンボルのひとつとなっていますから、当時の人々の決断は大正解だったと言えるでしょう。
ひがししんもん(東神門)」と呼ばれ、金沢城の二の丸殿てん(御殿)にあったからもん(唐門)を1963(昭和38)年に移築したものです。総ケヤキ造りでくぎ(釘)は1本も使わず、屋根は瓦と銅板でふいています。金沢城は江戸、明治の火事でことごとく焼失しましたから、とても貴重な建造物です。からもん(唐門)が幾多の火災をくぐり抜けてきたのには、門に彫られている2匹の龍が水を呼んだからという言い伝えがあります。
尾山神社ははんしゅ(加賀藩主)の別邸・かな殿てん(金谷御殿)があった場所に建っています。庭園(しんえん(神苑))もかな殿てん(金谷御殿)の一部で、江戸時代後期から明治初期にかけて形づくられた池泉ちせん回遊かいゆうしき(池泉回遊式)の美しい庭です。
この庭が楽器の庭と呼ばれるのは、「ほうしょうじま(鳳笙島)」「じま(琵琶島)」「とりかぶとじま(鳥兜島)」「ことはし(琴橋)」というように、池に浮かぶ島や橋などに、がく(雅楽)にちなんだ名前がつけられているからです。ちなみにほうしょう(鳳笙)(琵琶)は楽器、とりかぶと(鳥兜)は頭にかぶるものです。
3000年に1度しか咲かないと言われる伝説の花「どん(優曇華)」がいわのぐ(岩絵具)で描かれています。こちらはかな殿てん(金谷御殿)から移築したもので、尾山神社の見どころのひとつです。
あります。代表的なものを紹介しましょう。
神社が所蔵する「淡吹の面」と呼ばれる能面には、少し怖い逸話があります。この鬼気迫るあくじょう(悪尉)面(※)は、3代としつね(利常)公の頃に漁師が海から引き上げたもので、うたい(謡)をうたい、口からあわ(沫)を吹くなど不思議なことが続いたので前田家にけんじょう(献上)し、その後前田家でも異変が次々起こったので尾山神社へほうのう(奉納)したと伝えられます。神社でもこの面を外へ出すと「一てん(天)にわ(俄か)かにかきくも(曇)る」とされ、門外不出となっています。
あくじょう(悪尉)面は能面の種類のひとつで、強く恐ろしい表情をした老人の面。

利家公とお松の方について

織田信長公につか(仕)えて戦国の世を駆け抜けた武将です。「やり(槍)また(又左)」と呼ばれ、さんけんはん(三間半)(6.3m)のながやり(長槍)を手に戦で活躍する一方、そろばんを愛用して算術も得意でした。信長公亡き後は、豊臣秀吉公の天下統一を助け、加賀百万石のいしずえ(礎)を築く大名となりました。
はん(加賀藩)はんしゅ(藩主)となってからは文化芸能の発展に力を入れます。利家自身、能の愛好家であるとともに、秀吉公が開いた北野きたのだい茶会さのえ(北野大茶会)で秀吉公の右座に座ったほどの茶人として知られています。
ゆうしょう(勇将)の陰にけんさい(賢妻)あり」の言葉がぴったりです。利家公は「しずたけ(賤ケ岳)の戦い」「すえもりじょう(末森城)の戦い」と2度の天下とりの戦いに巻き込まれましたが、いずれの合戦でもお松の方が重要な役回りを演じています。特に越中からさっなりまさ(佐々成政)が攻め込んできたすえもりじょう(末森城)の戦いでは、蓄財に努めていた利家に対し、「家臣ではなく、金銀を召し連れてやり(槍)を持たせ突かせたら」と皮肉ってしっ(叱咤)したというエピソードが有名です。
利家公の死後は幕府と前田家のゆう(融和)のため自ら進んで人質となり、江戸で14年の長い人質生活を送りました。その行動が結果として前田家の存続と繁栄につながったとされます。
(母衣)」と呼ばれる袋状のもので、馬で駆けると風で膨らみます。武将がよろい(鎧)の背に付ける飾りであり、流れ矢を防ぐための武具としての役割もありました。
像ではわかりませんが、本来は赤色です。織田信長公には、赤と黒に染め分けた(母衣)を背負ったあかしゅう(赤母衣衆)くろしゅう(黒母衣衆)と呼ばれる親衛隊がいましたが、利家公はあかしゅう(赤母衣衆)の筆頭として活躍していました。
利家公がすえもりじょう(末森城)の戦いで着用したとされる全身金箔押しのかっちゅう(甲冑)のうち、かぶと(兜)のみ複製したものです。かっちゅう(甲冑)の正式名称は「 きん ざね しろ いと がけ おどし どう まるの そく (金小札白糸素懸威胴丸具足)」といい、実物は前田家が所蔵しています。

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尾山神社

〒920-0918 石川県金沢市尾山町11-1
TEL/076-231-7210 FAX/076-231-4685

交通 電車 金沢駅下車タクシー5分
バス 北鉄バス南町・尾山神社下車徒歩3分
高速金沢東インターより20分、高速金沢西インターより30分