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尾山神社について

尾山神社の歴史

尾山神社創建以前

慶長4年(1599)4月27日に前田利家公が没してまもなく、2代藩主・利長公が父である利家公を御祭神とする神社の創建を志すも、豊臣秀吉公の盟友といわれた利家公を祀るにあたり徳川幕府の目をはばかった利長公は、海老坂八幡神社(高岡市)と榊葉神明宮(氷見市)を金沢に遷座するという名目で卯辰山麓に卯辰八幡宮を創建し利家公を密かに祀りはじめ、以降、前田家は篤い崇敬を寄せます。

尾山神社創建直前

慶応2年(1866)、13代・斉泰公から14代・慶寧公に加賀藩主が交代し、金沢城の出丸であった金谷御殿は隠居した斉泰公の住居となります。そして明治4年(1871)の廃藩置県により慶寧公は東京へ移住、続いて斉泰公も東京へと移住し金谷御殿は主が不在となります。

尾山神社創建

廃藩置県に伴い前田家が東京に移住し、主を失うこととなった金谷御殿跡地に藩祖・利家公を遷座し神社を創建しようという運動が前田土佐守家10代・前田直信を始めとする藩臣・藩士を中心に地元の熱意として起こります。『利家公をお祀りしてきた卯辰八幡宮が退廃を極めているので金谷御殿地を買い求め移転し、建物も造り替えたいと(県庁に)願い出たところ御聞き届けいただいた』(創建趣意書要約)。
そして明治6年(1873)11月16日、金谷御殿の部材を一部流用する形で社殿を建立、卯辰八幡宮から御祭神として前田利家公を遷座し、尾山神社が創建されました。
さらに2年後の明治8年(1875)11月25日には「万民その美観を仰望して知らず知らずに参拝したくなる神門を」という思いのもと、文明開化における当時最先端の技術を駆使した和漢洋折衷の特異な「擬洋風建築」の神門が落成します。

現在の尾山神社

〝加賀百万石〟と称される現在の金沢の繁栄の礎は、藩祖・利家公の金沢城入城から始まったといっても過言ではなく、2代・利長公から3代・利常公の時代にかけて120万石の大藩へと発展し、その後も前田家の治世が多岐にわたる分野において興隆・護持に寄与したことはいうまでもありません。城下町としての整備をはじめ、政治・経済・産業・教育・文化・芸能にいたるまで金沢を構成するほとんどの要素が前田家と深く関わっています。
尾山神社は、歴史は浅くとも明治初期という激動の時代にしかない労苦のなか地域の人々の並々ならぬ熱意と尽力によって創建され、今や金沢のシンボルとなっている神門やレンガ造りの玉垣など明治初期創建だからこその唯一無二の建造物が残されています。
そして現在の〝金沢のにぎわい〟の礎を築いた利家公とお松の方をはじめ歴代の藩主・当主を御祭神として祀り、百万石まつりなどの祭りを通じて今なお続く前田家と金沢との深い結びつきを表す場所であり、金沢市民の心の拠り所として伝統文化を重んじながらも新しいものを取り入れる精神を表す象徴ともいえます。

尾山神社の風景

年表で見る

  1. 天正

    1. 10年(1582)

      本能寺の変 織田信長没(6月21日)

    2. 11年(1583)

      前田利家金沢城入城(6月14日)

  2. 慶長

    1. 3年(1598)

      豊臣秀吉没(9月18日)

    2. 4年(1599)

      前田利家没(4月27日) ※2代藩主・利長が卯辰八幡宮を創建し密かに利家を祀る

  3. 慶応

    1. 2年(1866)

      13代・斉泰(なりやす)から14代・慶寧(よしやす)に藩主交代 ※金沢城の出丸であった金谷御殿は隠居した斉泰の住居となる

  4. 明治

    1. 2年(1869)

      版籍奉還(6月) ※慶寧は藩主から知藩事(加賀藩知事)になる

    2. 4年(1871)

      廃藩置県(7月)

    3. 4年(1871)

      14代・慶寧 東京移住(8月)

    4. 4年(1871)

      13代・斉泰 東京移住(9月)

    5. 6年(1873)

      尾山神社創建 御祭神・前田利家公遷座(11月16日)

    6. 8年(1875)

      神門落成(11月25日)

    7. 10年(1877)

      封国祭を斎行 以降、恒例となる(6月14日)

    8. 12年(1879)

      前田家祖霊社(現・金谷神社)創建 ※現在2代藩主から17代当主までを祀る

    9. 35年(1902)

      別格官幣社に列せられる(4月26日)

  5. 大正

    1. 12年(1923)

      封国祭を「第1回金沢市祭」として開催(6月14日)

  6. 昭和

    1. 10年(1935)

      神門が国宝(旧国宝)に指定される(5月13日)

    2. 21年(1946)

      社格制度廃止、金沢市祭が中止となり「尾山まつり」を斎行(6月14日)

    3. 25年(1950)

      改正文化財保護法により神門が国の重要文化財に指定される

    4. 33年(1958)

      「尾山まつり」と「商工まつり」が一体となり「百万石まつり」が開催され現在に至る(6月14日)

    5. 48年(1973)

      御鎮座100年式年大祭を斎行(10月)

  7. 平成

    1. 10年(1998)

      翌年に利家公没後400年祭を控え利家公正室・お松の方を本殿に合祀、本社御祭神が利家公とお松の方ご夫婦2柱となる(9月27日)

    2. 25年(2015)

      北陸新幹線(長野~金沢間)開業(3月14日)

  8. 令和

    1. 5年(2023)

      御鎮座150年式年大祭を斎行(10月)

    2. 6年(2024)

      北陸新幹線(金沢~敦賀間)開業(3月16日)

前田利家公について

この地に、繁栄の礎を築いた武将。

前田利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、加賀前田家の初代藩主です。織田信長に仕え、「槍の又左」と称される勇猛さで名を馳せました。信長没後は豊臣秀吉のもとで重用され、加賀・能登・越中を治める大大名へと成長します。
利家は武勇のみならず、町づくりや文化の礎を築いた名将でもありました。その歩みが、のちに「加賀百万石」と呼ばれる繁栄へとつながります。
尾山神社は、その遺徳を称え、前田利家公を主祭神として祀っています。

前田利家公像

お松の方について

利家公を支え前田家を守った加賀の母

お松の方(おまつのかた)は、前田利家公の正室として常に利家公を支え続けてきました。
利家公没後は、加賀藩の安泰と存続のために揺るがぬ覚悟と知恵で徳川幕府との間を取り持つ存在でもありました。
激動の人生を過ごし、家と人々を守り抜いた姿はいまも語り継がれています。

お松の方之像

宝物紹介

  • [鎧胴]

    御祭神着用 卯辰八幡宮伝来

    鉄製で正面に天満宮と彫り上げ、両脇に梅と松の図柄を彫り、右側に前田又左衛門利家と刻してあります。
    胴正面のところには、鉄砲の鉛玉4発の玉跡がはっきり残され、生々しい戦国時代を思わせます。

    鎧胴
  • [冑]

    御祭神着用 卯辰八幡宮伝来
    鉄製皮黒漆固 大鯰尾形・鉄製皮黒漆固 小鯰尾形

    利家公は、戦いに臨まれるときは常にこの冑鎧をご使用になり、戦えば必ず勝ち、一戦ごとにその恩賞により領国は拡大したといいます。

    兜
  • [刀剣] 国指定重要文化財

    十五代当主 前田利嗣公献納
    <太刀>備前国光忠作 朱塗台雲龍金蒔絵鞘(桃山時代作)
    <脇指刀>備前国秀景作 朱塗台雲龍金蒔絵鞘(桃山時代作)

    この大小の刃は、前田利家公が桶狭間の合戦で名をはせた折、ご使用になったものです。利家公はその後も、この刃を自分の守り刀として、ことのほか愛用されました。

    刀剣
  • [鞍と鐙]

    十四代藩主 前田慶寧公献納

    この鞍と鐙は万治3年(1660)の作で、作者は喜多川と書かれているだけで詳細は不明です。
    梨子地に剣梅鉢の定紋をあしらった優美なもので、合戦の際のものとは違って、狩りや遠乗りなどに用いられたといわれています。

    鞍と鐙
  • [能面] 金沢市指定文化財

    十五代当主 前田利嗣公献納

    加賀藩の歴代藩主は、初代前田利家公をはじめとして、いずれも能楽に興味を有し、その育成に努められたところから、諸藩中でも随一の謡曲の隆盛をきわめ、加賀宝生という言葉さえ生まれました。
    尾山神社には、前田利嗣公から奉納された能面が二十数面あります。

    能面
  • [面]

    悪尉(淡吹の面)

    悪尉(アクジョウ)は、寛永年間に能登の海から引き上げられた凄味を帯びた能面です。自ら謡い、泡を吹くなどの怪異が続いたため、前田家を経て尾山神社へ奉納されました。現在も「外に出せば天候が急変する」との言い伝えから一切公開されず、別の桐箱に納められ門外不出とされる神秘的な面です。

    面

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